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プロローグ
メカトロ研の会議室に置いてある、2つの赤い車の模型。メカトロ研のスタッフすら数人しか分からないこの模型こそ、故・大川会長の忘れ形見だったのだ…。
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フェラーリのカロッツェリア、ピニンファリーナが来社
1999年夏、フェラーリF355をモデルにしたドライブ体感ゲーム「F355challenge」が発売され、ドライブゲームファンのみならず、世界中のフェラーリファンをも巻き込んで絶大な人気を誇っていた。そんなある日、当時のメカトロ研の部長と「F355challenge」の筐体デザイン担当者が社長室に呼ばれた。彼らを待っていたのは、当時の入交社長、大川会長、そして、フェラーリなど世界の名車のデザインを手がけてきたピニンファリーナ社の面々、そしてピニンファリーナ氏本人だった。
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ビッグプロジェクトが知らぬ間にスタート
「F355challengeの製作の過程を話してほしい」と、大川会長は語った。「F355challenge」の元となったF355は、ピニンファリーナデザインによるもの。実はピニンファリーナとセガが組んで、さらにバージョンアップしたフェラーリのゲームマシンを作ることがすでに決定していた。しかし、あまりに規模も費用もビッグなため、大川会長の下にチームが組まれ、社内外に喧伝されることなくプロジェクトはスタートした。
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栄誉とプレッシャーの中でのコンセプトワーク
それからデザイン担当と設計担当、その上司の吉本は、筐体の基本的なコンセプトを練りに練った。デザインを担当するのは、世界的に有名なピニンファリーナ。そう思うだけで心が躍った。と同時にそれに見合ったものを作らなければとプレッシャーもかかった。こうしてようやくできあがったのが、50インチの大型画面を3つ使い(F355challengeは29インチが3つ)、実際のフェラーリと同じふたり乗り(前作は一人乗り)のもの。そんなころイタリアから筐体の模型を携えたピニンファリーナ氏のスタッフが再び来社した。伝えていたコンセプトに 乗っ取ったものではなかったが、本物の車の質感をスポイルしないフォルムや面の処理の素晴らしさは目を見張るほど。「これがピニンファリーナだ…」。
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プロのモノ作りの魂がせめぎあう
しかし、実を言うと1台目は、メカトロ側のコンセプトとは違うものだった。ピニンファリーナ社があそこまで作り込んだ素晴らしいデザイン案に対し、ゲーム屋の我々が…ダメ出しをしたのだ。これは、なかなか許されることではない。しかしながら、レイアウト検討用で、試作機とは呼べないようなバラックに、ピニンファリーナのスタッフを乗せて遊んでもらったところ、こちらの案の意図するところを納得してくれて、すぐに2台目の模型が制作された。「確かにこれは良い。。。」と言ってくれた彼らの言葉を時折思い出す。
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物心両面からのフォロー。会長も夢を見ていた
大川会長の特命で始まったプロジェクトは、実際のゲーム機を製作する手前まで進んだ。コンセプトワークをしているころから、ことあるごとに「あれはどうなった?」「進んでいるか?」と秘書や上司を通して、会長の叱咤激励があった。予算は潤沢に与えられたが、製作に関してはすべて一任してくれていた。そんななか完成したあかつきには1号機を会長室に置きたいとも伝えられた。完成すれば全長4mにもなるマシンであるにもかかわらず…。
世界屈指のデザイナーと組んだ、採算を度外視した前代未聞のプロジェクトを、会長は物心両方から支えた。スタッフは会長の気持ちがうれしかった。「俺たちのことを気にかけてくれている。そして任せてくれている」。しかし…。
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会長の死、そしてプロジェクトは…
2001年3月、療養中だった大川会長が亡くなった。折りしもセガの業績は芳しくなく、超大型で採算を度外視したゲームの開発を続けることは難しかった。それらはこのプロジェクトの終わりを意味した。その知らせはイタリアにも伝えられた。ピニンファリーナも状況を理解してくれたようだと上層部から聞いた。
プロジェクトのスタッフも忸怩たる想いだった。このビッグなゲームを製品として世に出したかった。世間をあっと言わせたかった。
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無念な想いは形をかえて現在の仕事に生きる
今でもスタッフは思っている。「このプロジェクトは挫折したのではない。無期延期にすぎない」と。そして、ピニンファリーナと組むことで、ゲーム機という枠を超えてデザインを考えることができた。それは今でもデザイン担当者のデザインワークの中でひとつの教えとなり、現在のゲーム製作にも生かされている。
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